かいざあ

読書ノート

【書評】日本人の法意識(川島武宜)

 

読書ノートの1冊目にしては専門色の強い本になってしまったが、直近で読了して記憶が新しいためこの本について要点をまとめておきたい。

 

要点

この本を通じて繰り返されるのは、「権利」と「権力」の二項対立だ。

戦前までの日本においては、国や地主など事実上の力関係が強い立場の者が「権力」によって国民あるいは小作人などとの関係を構築していた。

「権力」による関係と聞くと奴隷のようなイメージを抱きがちだが、ここでいう権力関係は「御恩と奉公」的あるいは家父長制的関係である。

これと対比される(西欧的な意味での)「権利」は明確性を有する客観的なものである。

 

わかりやすい具体例として、地主と小作人の関係が挙げられる。

権力関係においては、凶作の年であれば地主が小作人の地代を下げてやり、その代わりに小作人は普段から時間外であっても地主が求めればある程度作業をする。

一方で権利関係においては、凶作であれ地主は小作人に一定の地代を請求する権利を有するし、小作人も時間外の作業をした場合はその分の対価を請求する権利を有する。

 

すなわち、西欧的「権利」の平面においては、明確性が重視されており、「遊び」の部分は少ない。戦前の日本(あるいは権利概念に慣れ親しんでいない国・地域)においては、曖昧な部分や阿吽の呼吸で処理しましょうという「遊び」が存在している。

 

明確性を有する「権利」の平面では、その裏返しとして明確な義務が存在し、線引きされた義務に属しない行為・要求については当然する必要がない。

 

このような正反対とも言える二つの概念が一つの国に同居するとどうなるか。

それがかつての(ひょっとしたら現在の)日本である。

明治維新にかけて西欧風の法律を整備した日本では、そういった法律の上では個人が権利を有していたが、国民の意識としては「法律ではそう書いてあるけど、そうは言ってもお互い譲り合って適当なところで落とし所を探りますよね」というのが主流だった。

この「ずれ」がどのように変化しているのか、どのような影響を与えているのかが本書の主題であり課題である。

ともすれば、ずれによって外国の企業と契約した日本企業が、流し読みしサインした(あるいは全く読んでいない)契約書の細かい文言によって、多額の損害賠償を請求され倒産してしまうのだ。(実際にこのような事例があったそうだ)

日本企業からすれば契約書は巻きましたけど、問題が起きたらお互い話し合って妥協するのが当然なんだから契約書なんてあまり重要ではないという感じでも、外国企業からすれば契約書にこう書いてあるから我が社は「権利」を有するので交渉の余地などないといった具合だ。

 

感想

今暮らしている日本でも、明確な取り決めはないけどお互い様だからという事例は多々ある。先日飲食店で飲み物が入ったグラスを倒してしまった際に、無料で新しいものと取り替えてもらったことがあるがこれもその例だろう。

 

前回言及した「しっきー」さんのブログの中で述べられる「正しさ」と「豊かさ」のトレードオフという観点から考えると「権利」という正しいものを個人が追求するほど、「遊び」の部分(ここではお互い様的な相互関係)が小さくなり、必要最低限のサービスあるいは商品が提供されるにとどまるといえる。

これは豊かさを小さくすると言えそうだ。

 

ところで、日本の判例においては、(特に民法において)諸事情の総合考慮による妥当な結論を導くものが多い。これが上記の「遊び」があるからだとすると、これによって裁判結果の予測可能性が損なわれているといえる。

だが「遊び」があることで、事前に当事者間で交渉することができるため、そもそも裁判をするに至らないというメリットの方が上回りそうだ。